「貝にも環境ホルモン」
異常、100%近い地点も
 国立環境研究所の堀口敏広主任研究員(33)=生体毒性学=は立ちつくした。手にとったバイガイには、雌のはずなのにペニスが映えている。8年前のことだ。以来、日本近海の巻き貝類の調査を続けてきた。船底に塗る防汚剤 に含まれている有機スズ化合物による汚染が、環境ホルモンとして巻き貝に異常をもたらしているらしい。生殖機能障害を起こしている貝の被害は予想を超えていた。人間への影響はないのか。堀口さんは「早急に本格的な調査研究を立ち上げるべきだ」と呼びかける。

「遅すぎた」
1990年2月。大学院生だった堀口さんが中部地方の水産試験場を訪ねたときのことだ。外国の論文で読んだのと同じ現象が目の前にあった。
「インポセックス」と呼ばれる症状だ。メスにオスの生殖器ができる。欧米で1969年以降、巻き貝の一部に見られると報告され、船底塗料である有機スズ化合物のトリブチルスズ(TBT)が主原因だといわれていた。国内での報告はまだなかった。
 TBTなどは環境ホルモン物質のひとつだが、当時はまだこの言葉もない頃だった。
 悔しさにはわけがある。
堀口さんらには前年から、水産生物への影響を心配し、有機スズの法規則を求めて活動していたが、製造・使用は止まっていなかったのだ。貝は専門外だったが、すぐに東京に戻り、研究に着手した。
1990年春から、堀口さんは国内の行く先々で片端から巻き貝を集め始めた。68種のうち38種でインポセックスを確認した。
 中でも、イボニシという__前後の種は、97の調査地点のうち94地点でインポセックスがみられた。しかも、どの地点でも、とったメスのほぼ全てにペニスがある100%近い出現率だった。
 解剖すると、メスにはないはずの輸精管(精子の通り道)もあり、これが輸卵管(卵の通り道)の出口をふさいで卵を埋めなくしているものもあった。卵は輸卵管内で腐り、つまっている。精子をつくっているメスまでいる。こうなると、まさに「性転換」である。
 世界に例がない異常事態だった。欧米では、オス化したイボニシの割合は、地点ごとで10%や30%と差が出たが、日本沿岸はどこも、奇形の度合いが進んでいた。
 ペニスの長さを測ると、海域の汚染が進んだ地点ほど長く、産卵できない傾向があった。船がよく通る航行区域やマリーナ、港湾、造船所近くなどである。
 実験室のTBT溶液の中で飼育すると、1ppt程度の濃度でも正常なメスにペニスがはえた。50mプールに目薬一滴分にもならない量で影響が出ている。1995年英国の海洋汚染の学会誌に報告した。
 18種類の有機スズを筋肉に注射する実験で、TBTとともに、トリフェニルスズ(TPT)もインポセックスを起こすことが証明できた。1997年、英国の環境汚染学会誌で発表した。
 イボニシのインポセックスは、環境ホルモンの影響だという因果関係が証明された数少ないケースだ。
 また、バイガイについては、西日本のある県で、漁獲量1984年をピークに、当時の5%程度しかとれないままになっている。有機スズや生殖機能の障害との因果関係はまだ研究途中だが、堀口さんの調査では、インポセックスになぅたメスのペニスの長さと卵巣の中の有機スズの濃度は相関していた。
 堀口さんは「現象があってても、それが異常なのか、原因は何かを特定するには膨大な時間と手間がかかる。いくつかの生物に異常が報告されているが、手が回らない。人に影響が及んでいなければよいのだが」と話す。

有機スズ化合物:船底や漁網につく生物を殺すための塗料や防汚剤などとして1960年代半ばから世界的に使われてきた。このうちトリブチルスズ(TBT)とトリフェニルスズ(TPT)は巻き貝の生殖障害を引き起こすことから、環境庁の研究班は環境ホルモンと考えられるとしている。日本では1988年から化学物質審査規制法に基づく規制が始まったが、「原則製造・使用禁止」はTBTの一種のトリブチルスズオキシドだけで、残るTBT13種とTPT7種は事前届け出義務が課されているだけだ。1990年から関係省庁が使用自粛をよびかけ、昨年7月、日本塗料工業界は製造を自粛した。世界では、製造が続いている。

〜朝日新聞1998/02/28朝刊〜

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